Will Hall
Will Hall 個展に捧げる散文
前書き
同じ環世界を持ち、同じ環境に聴かれていても同じ音を聴いてない。同じ環境に見られてはいても同じ風景は見てはいない。それは少なくとも絶え間ない刺激が外側からだけではなく、内側からもあるからだ。(他は他者としか言いようのないものか無だ)
天地は花 神仏は花 人の心は花の心
内側からの刺激が外側の刺激とアナロジーやアイロニーを結びだすのは脳ではなく無に委ねられたこころにおいてだろう。
S性理論でノーベル科学賞のEが「G」でノーベル文学賞のTと対談した100数年前、Eの科学には普遍の真実があるという主張に対して、Tが真実はそれぞれの心にしかないと主張し、EはE自身のほうが実は宗教的な人間であることを認めたそうだ。
散文
)外側(に向かっていく知覚と(内側)に向かっていく知覚があるとして()の中では何が知覚を刺激するというのか(サイエントロジーのテストを受けてみればいい)
眼を閉じてみよう。(2つとも、そして目の前は暗くしよう)
何かに素朴に興味を持ち続けて生きていくことが素朴な造形になったり、ミニチュアになったり、装置になっていく、(Bad joke?)
妄想は 妄想されたと また妄想してアクセスされる あのとき妄想したように
妄想の像が かたちになること そして それが いまも 妄想されて かたちになってみえていること(造形の速度は人間の速度だから止まって見える、光の創造物その速度はシッディなしでは眼には見えないはずだったメディア)
視覚の代替として知覚しているものの知覚がくっついている。視覚は別の知覚とくっついている。七日間の瞑想と五日間の無人島の2つの体験がくっついていることとなにが違うのか。ふたつの眼である器官、またはふたつの知覚がひとつの器官になったいま、知覚や認識は七日間の瞑想の機会から除外され理性的な意識に格下げされているのだろうか。
重度の視覚障害者は刺激のない静けさの闇の中で外側を知覚しているのだろうか。それとも光の刺激のある感覚があるのだろうか。闇の中でどうやって光に導かれるのだろうか。
(ぼくの作品は体験してみるしかない)
ぼくの体験は、そもそも街中に魅力的ななにかが溢れているという想像力からはじまる。その魅力が絵画やオブジェのような造形物ならそれ自体の魅力で十分だった。女性や男性を見て妄想していたりするし、それは街をひとりでにデザインしていったりするときもあるし、コンセプトだったら魅力は正直今すぐにはわからなかったり自分の後ろをすっと走りつづけている馬のような動物を捕まえるような罠だったりする。ああ^^また逃げられたーーよかったつかまらずにすんだーー(ぼくの内側にしかない妄想が外側からの刺激として見えて自己満足しているときに、自己満足をぼくから取り上げるんだから)
書き直しー
造形
第3の眼
そして見えないこと
ふたつの眼で見ていること
ドリシティは凝視で集中と気付きになる内側を見る眼
住んでいる街はぼくたちを映し出す鏡 ノマドはその鏡に映らない
鏡は光の刺激をぼくたちに知覚させるぼくの共犯者
(鏡はそれぞれの作品ごとにその存在や関係が異なる台 ミニチュアのサイズも新たなメディアも、そのメディアの現れ(ノイズ)も許容していくのはぼくたち)
Snooo of NOOO KITTY