Mizutama 個展 ”Similar”
「これはこうである」と断言することにより体系的な価値を付与することは、それ以外の可能性の発展に影響を与え過ぎる嫌いがある。しかし、その意識的に体系的であることを避ける前置きと共に敢えてその可能性への影響のたたき台の表現として断言してみることは建設的なことなのではないだろうか。わたしなら、こう断言してみたい。ミズタマは「もどく」という意味でイメージを扱う演劇的なアーティストである。
彼は彼の活動開始以来の活動の場で、活動する他のアーティストの作品を真似たとして批難を受けたことがある。サウンドアートのような演奏行為をするときにも先世代のアーティストが切り開いていったものを模倣していることは本人も否定していない。さまざまな根拠と呼べるものがあるものの、一番は彼自身がつねに何かのイメージである役柄を演じているような認識方法のところにあるだろう。演じるということはそのまねる対象を知っているということで、知らないことは真似ることはできない。ミズタマはこれまでのところ、何かわからないことやある業界に対してノマド的に新しいことに挑戦していく作家ではなく、それを模倣している模倣犯的な作家である。知らない人には新しい、知っている人にはたまにはこういうのを体験するのも良いねと言われる。日本ですでに行われていることを海外に、すなわち場所を移して行うことで活動の場を得ている側面もある。これだけを書くとどうしても批難しているように思われるかもしれないが、決してそういうことではない。
それどころか、「もどく」ということは表現はもちろん、存在の本質にもかかわることである。
模倣する自己を肯定的に受け入れるリテラシーを得ることで、それは逆説や反転することなく、徹底的に先端化していくこととなる。その先に彼が死んだときには、彼はたとえばだれかの声を発しそれを実在させるような古来からのシャーマン(イタコ)のような仕事(表現)をしたと野生の思考的な批評されるのかもしれない。
模倣とは現物を写そうとすることを意味するのではなく、その結果がものを実在させることになるあらゆる行為を意味するとアリストテレス「詩学」の序文でガルシーア・バッカは言った。つまりは、まねることでそのものは存在する。そのものではなく、イメージを実在させること。たとえば、わが国の狂言は「もどき」の表現である。折口信夫は「翁の発生」のなかでこう書いている。
もどきは普通、からかひ役だけのものゝ様に感じられてゐる。――此を動詞にした「もどく」の用語例で見ても、反対する・逆に出る・非難するなどの意味を持つたものばかりである――が、古くはもつと広い意味があつたと思はれる。尠くとも演芸史の上からは、物まねする・説明する・代つて再演するなどの意味を持つ、説明役であつた事が考へられる。
模倣犯はフィリピンで暮らした日常のなかで観た「作品」とはされない創造性である作品をもどいて見せているのだろう。物まねし、説明し、代わって再演しているのだろう。
もし、ミズタマの行為が模倣であって、ガルシーア・バッカの言うことがあなたの真にせまるものであるとしたら、彼と何かの関係は真似ることによってこれまでにない新たなものとなる。ミズタマのインストールし、もどいたものは、なにを実在させるのか。