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【Cross literal modernité】彼女の文脈、彼の文脈、その現代性

登場人物たちは、現実の世界の中ではなく、個々の内に暗示的に潜む文脈の中に生きており、本人たちが直面する現実の世界の風景から超出する ”もうひとつの世界” に生きつつ、ときにその文脈に、関係した文章を書きつける。

どのようにして彼、彼女を知ることとなるのだろうか。そもそも知っている気になるぐらいなら、書くべきだ。書かれないといけない。

一回性の表現の淡さや緊張感の不在に対してのアルターなギャラリストとしての態度を書き、それを肯定し続ける人物。少なくとも、それらの不在に切迫する彼女の意識的な態度によって文章の投稿、そして応答が始まったのだ。

その淡さ、そして不在を継続していくことに何かの可能性を肯定させようとしている人物。継続していく淡さが同時に引き伸ばされた濃さであるような生き方そのものを表現している人物として彼を書くことができる。淡さの濃さが、濃さの連続や、引き伸ばしても濃いような濃さと同様に肯定できるものかどうかということが問われるような文章になるだろう。彼が書かれる文章としたとき、またそれが高度な場合、芸術性があると言うことができようか。

だとすると、書かれた彼はこれを続けるほかはないのか。できるだけ長く生きていく人物として。できれば一生涯。しかし、それが長ければと思うがゆえに、すでにすべてが書かれていて、書き換えられるものであるので、ほんとうは長さは関係ない。

しかし、いまの一回性の表現が、あるべき両義性を失っているのは事実で、淡さの集積としての濃さが表現されていない状況では、彼女のものであり続けてきた場を使用することを拒否する態度は理解できる。いや、この文脈では、むしろ彼女を書きえる役柄として、そうすべきだろうし、実際にそうしているのだ。

この文章では、彼女が当初より態度を明示していることと、この不在への切迫のやりとりを、文章を書くことでも開始したことに妙を持たせたい。もちろんそれは、彼女だけでなく、彼が展示の終了を拒み、引き下がらずに淡いまま継続したことにもよるものでもあるので、文章そのものがふたりへの評価につながるといった取るに足らない現実へは落ちることはない。彼女の記した文章から彼女の暗示的文脈を彼が読むこと、同様に彼の暗示的文脈を彼女が読むことに、ふたりはもちろん、それを思考しなければ通過できない他者たちへのリテラシーが試されることとなる。

ここで試されるのは現代性、つまり、いかに2つの文章から文脈を読み、自己の内にある文脈から文章を書き出すことができるかである。

それはかの詩人の現代性

半分はうつろう現在を、半分は永遠を・・・ 一時的なものから永遠なものを抽出すること

識字の可能性を持った複数の文章、その文脈が存在するいま、読み解こうとする個々の内につくられる文脈と、実際の展示に足を運んで感じる個々の体験との差延をつくったと言えなくもない。それらの文脈により、徹底的に不在を肯定することもできるだろう。

しかし、そうは書かないのである。最終的に、表現の拒否も表現でしかないということ、つまり、するとしないがあるのではなく、どちらかひとつしかないこと、そしてそれは機会の濃さであることを書くこととなった。

なお、この文章は参加型の作品に参加し、そのあとを読んでしまった自分を肯定し通過していくために、それらだけでわかる範囲をもとに書いたもので、個人的な評価や感情で書いたものではなく・・・そもそもちゃんとした客観的な事実に基づいているわけではない。

文章というものは、性質上支配的なもので、しかし、このように主観的な現実の風景から文章を超出してゆくこと、そしてそれをさらすことによって自分自身で作り出してしまう支配的な文章から、文脈のもうひとつのあり方の可能性を肯定してゆけるものであると考える。

それを思考しなければ通過できない他者たちとして


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