【Review】”おとこのフェミニズム”
企画が良い機会をつくったのではなく、いまその機会をのちへの問いかけにしなければならない。
きょう、あしたとこのセンシティビティを繋げていくために。
男女の性差にかかわらず、基本的に差別というものはするのではなく、してしまっているものだ。彼女が主張する差別の端的な例に、男性が「ぼくはしていない」という必要はない。してしまっている人はそれでも差別が日常的に存在していることに気がつくことはない。顔面をごつん!と殴られるような事故がない限り。
おとこがフェミニストを語ることは必要なのか
女性が社会を批評してきた意義・有効性、そして男性がするべきという根拠となるその意義・有効性について。
差別される側の論理
弱者側としての女性の主張はどうしても従来のステレオタイプの”フェミニズム”の関係性のワナにはまりやすい。黒人の差別の歴史は被差別民の論理に大きな知を与えてくれている。どれだけ白人に侮辱的な差別を受けたとしても、被差別民は被差別民の主張を正当にするために、差別する側と同じような調子でものを言ってはいけないのだ。
差別する側の論理 ~両義性の問いかけ
差別する側の不利益について彼女は主張する。する、されるという二極構造においてその不利益に気がつきにくいのもする側の特徴のひとつ。差別をすることはイコールされることとなり、この場合、おとこはおとことして文字通り無意識に差別しながら差別されることとなる。これは、前述の人種差別等でも同様であり、生活の中の機会機会でその違いを差と勘違いしていることに端を発する。違いは勝つ要因にはならなくても、負ける要因になるのだ。
しかしながら、被差別側のポジショントークに少し入りがちな彼女の一回性のパフォーマンスを安易に批判するのは、その表現内容への高次、もしくは意義のある有効なクリティークとは言いがたい。
”しあわせなフェミニスト”とは、ほんとうは彼女は何を言おうとしているのか
2つあげられる。まず、彼女は従来のステレオタイプの”フェミニスト”ではない、個々におけるそれぞれのアルターフェミニストを持つべきであるということを主張していると捉えたい。それは、表現的な、ひとつの態度であり暗示的な主張として彼女はそれに成功している。さらには、しあわせというその自由における個の欲望のありかたの個性を求めているように読み取りたい。社会に合わせて生きることで、何がほんとうに欲しいものか、したいことなのかが去勢され、しあわせ自体が偽者をつかまされていること、偽善的なものになってしまっていることにも気がつかないことが問題と言いたいのだろう。
当事者の問題をどう考えていくのか これはあらゆる表現に共通の問いである
伝えるべきひとには伝わらないという問題は、どのような表現にも多少複雑なものであれば付いてくる条件である。話すものと、耳を貸すものがいる場合に、耳を貸さないものがいるということは当然のことであり、その耳を貸さないものこそが伝えるべきひとであることも是又然りということになる。
「すでに了解している人だけが、耳を傾けて聞くことができる。」
「呼びかけは、私の中から、しかし私の上にやってくる」
「音からはずれていくところに音が生かされる」
ハイデガー (倍音境へ⑫ ますみとも 「月刊かえる318」掲載より)
しかし、なぜ自分に関係ない人までに、人はそれを主張するのか。自分の目の前で自分を不自由な状況に追い込んでくるものに対して、支配的な差別のコンテクストを使用してくるものに対して、自由を確保するために反抗していけば良いのではないだろうかと思ってしまうのだが。やはり、それが自分がアルターなフェミニストであると表現するかしないかの分かれ目であろう。表現は高次なものに限らず存在し、その存在ゆえに内存されるものである。しかし、それをどのように現実の風景に描き込んでゆくのか、そして描き込まれてゆくのか。それは、自分や自分の愛するものに対してより良い社会にしたいというような、社会や人への愛憎や関心の幅とあらゆる意味での程度によるもののように感じる。あえて、個スヌーの場合を記すと、社会運動等を内存した行為を行う欲望はなく、それでも社会的な行為と認識されざるを得ないような状況に対して、つまりは無常な社会のうつろいと、これ同様に無常な自分とのずれのようなものに対して識字してゆくのみであることを宣言している。
個における自由と観念的な空虚な方向性
ひとつの合理的な考え方は、世界を導き得ないという歴史の大きな文脈をわれわれは経験的に知っている。あらゆる神は死んだのだ。しかも、100年以上前に。論理矛盾のない状態=万人が信じることができる状態、というものが成立し得ないことを説明するのは簡単なことである。論理は、説明不可能な絶対的なもの(古くは神、その他人間認識を基にしては説明不可能な前提的なもの=原因)を土台にしないと成立し得ない上に、それがあればいかようにも幾通りでも矛盾のない循環を描くことはできるのである。ゆえに、自分が確信を持って主張する方向性さえも皆が目指すべき唯一の方向性とは当然言い得ないのである。個々が信じる態度を機会機会で行動していくことで、ひとつの大きな考え型に基づく方向性ではない、それでも観照的には大きなひとつの傾向へとことは運んでいくはずである。もちろんそれは芸術的な表現をも含むであろうが、それも有効性の観点では日常の機会での態度の持ちようと大差がないように思う。
「つくることは私にとって、理解できず、思考できず、計画できない行為である。」
「だから優れた表現は理解できない」
ゲルハルト・リヒター
男性と女性はちがう世界を体験する
われわれは皆でおなじ空間にいておなじひとつの音、つまりおなじ音響を聴いているつもりでも、個々に別の音をきいているのである。例で説明すると、環境の中にある音のどれを聴いてどれを聴かないようにしているかということ、そしてその程度、個々の耳と身体、言語体系を含む属性による聴取能力の違いによっておなじ空間でもまったくちがう音を聴くのである。ひとつの音と思われている中でも倍音という代表している周波数に隠れている別の周波数があるのであって・・・とこれは余談になるのでご自分で検索して調べていただきたい。音とフェミニズムという観点にご興味のある方は、ポーリーン・オリベロスも女性ジョン・ケージショックと言われている現代音楽家でフェミニストとしても知られているのでこの機会にいっしょに勉強しましょう。
ここでは、男性と女性は風景的にはおなじ場所・環境でも、性差によって大きく異なる世界を体験するようになっているということを彼女は言っている。やはり、それはそれぞれの違いであって、差ではない。端的にいうと、どちらの社会環境が良くもう一方が悪いという単純なことではないということ。そういった根本的な理解からものごとは暗示的にもすすめられるべきなのだと思う。暗示と明示の挟み撃ちがもっとも有効だろう。
いまここで胆略的にまとめることにたいした意味はないので、それどころか自己肯定するために自らを膠着させかねないので、ここではそれはしない。
もういちど、はじめのことばを繰り返して終えたい。
だれかの用意した企画が良い機会をつくったと褒めたり感謝するのではなく、いまその機会をのちへの問いかけにしなければならない。
きょう、あしたとこのセンシティビティを底辺に沿え、繋げていくためには。過ゆくことを願うマテリアルの淡さを生きるのではなく、濃さを生きるためには。たとえ自分が詐欺師でも悪人でも、自分を善人と言う偽善よりかは真理を肯定しつづけることに近い。
ご参加いただきました方々、感謝を申し上げますと共に、大変自分勝手な批評をお許しください。
スヌ^^