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【Review】”Alter City” (Cross Literal Talk Rally Pretend Koukou)


↑ゲストの村田典子さんの写真を転用させていただきました。

中津、そこは、錆びれた商店街への異物の流入・・・ではなく、

生駒、郊外中流家庭の・・・ではなく、

あびこ、大阪市の最南端の・・・ではなく、

アメ村、再開発のあまりにも若年層に特化した失敗例・・・ではない

端から社会存在自体を相対視するものからすれば、まちは、地図には載っていないものだ。

属性は重要ではない、われわれはクオリティを求めている。

Altercity

それぞれの都市で

共有されなかった言語たち

自由に生きる

自由とは不自由に陥らないことであり、機会で自分自身にできることが見つけられること

生活協同組合

欲する生活を送るためのある一定の合意のもとに形成維持運営されている組合組織

欲する生活の内容によってその運営はなされるべきであるはずである

演劇の書き換え

生活への現実参加による各々の機会の積極的な受容によって、関係性により必然的に与えられる役柄を自ら能動的に書く。

チューンイン

音楽でいうところでは、社会ではその社会言語の歌を歌わなければならないということ。つまり普段の「はなしことば」から「歌の調性」へのチューンインをしなければ、誰にでも手早く理解できる会話ができないというものもそれに近い。それは、音韻化という、大量に簡略に平均的に、対応するための電話対応やマニュアル化した接客のようなものを端的に想像しているところもある。

クロスリテラシーの必要性

支配的な言語と文法により書かれる文脈、幾多もの文脈の絡まりをいかに複雑なまま識字していくことが可能か。(素直さ勤勉さによる継続が経験よりも勝る場合も大いにありうる)

たとえば、自分の場合、いわゆる社会運動や社会活動に参加したくはないが、それを理解したいと思っている。そして、他のことを観照するときにそれを高次に翻訳することを期待しているところがある。

要求の換金

労働対価を給与のような貨幣とせず、労働者の直接的な衣食住の保障およびその他要求に応えることと契約する。まず主に食を生産することによりその要求以上のもの、つまり余剰を生み出し、それを交換物とし外貨を獲得して衣住その他への資金を確保し生活を維持していく。

個人的には、その都市のコミューンのような少数ながら他人の集団であるAlter Cityはやはりある種の自由の可能性が限られてしまう嫌いがあるように見受けられる。要するに、ある条件の人間以外は長期にそこに属することが困難であること。しかしながら、そもそも、長期に在籍するものもいれば、一定期間でそこから独立していくものもいるのはごく自然なことであるし、それであっても存在価値は十分にあると言えるだろう。

考えてもみれば、自営業の飲食店の家族というものはそもそもそういうもので、夫婦ではない他人家族のようなものを形成していこうとしているのではないかと思った。それは、やはり家族的な連帯の必要性は無視できないのではないだろうか。そうなると、ある種の前近代の生活を維持し続けるアーミッシュの若者による俗世との選択のための試用期間を描いた映画「デビルズプレイランド」的な問題が表れるだろう。そうなると、重要なのは案外、単純に相性の良し悪しや個人の性質が肝なのかもしれない。

(今後、加筆修正の可能性ありです)

会場にて配布した手記

BAR KITTY Presents Cross Literal Talk Rally Pretend Koukou

“Alter City=もうひとつの都市”

本来、われわれにとってそれは“まち“ではなく、場と言われるべきかもしれない。しかしながら、それをオルタナティブスペースのように小さくは感じていないかもしれない。それは村ではない。さまざまな暗示的な文脈に囲まれた都市の中のもうひとつの都市をすでに複雑につくり上げているのだ。それをチャンススペシフィックに(一回性、すなわち機会(チャンス)を肯定するように)考えていくことに、あらかじめ勝敗を無化した上で、各々がAlter Egoという役を与えられる社会的関係性というゲーム、もしくは芝居に参加しながらも、自由に生きていくことの条件があるように考える。例えば、BAR KITTYはあびこのそこである必要もない。しかし、同時にあびこでしかない現実の風景もある。場が地図上である必要性があるとすると現在にそれがあるとしかいえない。BARのマスターというAlter Egoを与えられたスヌーの認識としてのあびこはすなわちスヌーの現在地だ。某大学のシンポジウムに誘われて参加したことがあった際に、大学の研究職の友人に近くのBARのマスターであると紹介されたが、それはスヌーのAlter Egoであり、友人のAlter Egoが研究職というのとまったくの同列であり、その関係性と文脈という属性から俯瞰した個人というもののクオリティや強度とはまったく別であり、これはスヌーのではなく、友人の抱えている関係性の重さの現われなのだと納得し自分の軽さに満足したのだった。人は関係性に与えられた役に膠着したとき、その感情までもが精神に貼り付けにされ操られてしまうものである。

登場人物は、母親の身体から生まれたのではなく、暗示的な文章、あるいは、ひとつの根本的な状況から生まれたのである。―ミラン・クンデラ

これをAlter Ego 、Alter Cityに置き換えることができる。自分の置かれている暗示的なコンテクスト、そして認識される根本的な状況からもうひとりの自分は生まれたのである。

複雑な文章を複雑なまま理解することにわれわれの喜びはあるように思う。簡単な情報を人より多く早く読むことによる消費競争に触発され、安易に団結し排他的に原因を求めて大行進することには用心しなければならない。このトークでは、上記のようなそれぞれの認識されるべき存在を生みだしている文脈、そして、各々が識字している文脈(表現者、現代美術、社会運動における哲学、美学、文学、音楽、現場など)に対しての相互的理解、その文脈に対しての各々のあり方(状態)についての理解を深め、各々の仕事における思考の幅をとることで奥行きを広げられればと思う。個スヌーにおいては、BAR KITTYは現在のスヌーとかおりの生き方という認識がある。独立していることより、自由であること、自分の仕事をする条件に過不足がないことが第一であるように考える(表現者やある種の求道者のようなものは自分の人生の中ですべきことを仕事とよぶ。お金を作るのは労働。考えることは観照。と区別したのはハンナ・アレント)。どうすれば自由にありうるのかということを重要視した現在地である。KITTYは決して誰かのための場所ではないが、そのような認識もされて使われることもわれわれの現在地としてのAlter Cityである。近代以降の美術館や博物館は、美術品等の保存とその展示というそれ自体の文脈の生み出すジレンマを抱えている。それと同じように、近代以降の表現者は人類自体の心の在り方によって仕事と生業に分断され続けている。現在地としてのAlter Cityである。

ゲスト 村田典子(Fukugan Gallery) ▼アメ村生まれアメ村育ちのギャラリスト。Contemporary Artの文脈に参加しつつも、別文脈・別発生の美の可能性を肯定するようなギャラリー運営をされていて、個人的に本当に尊敬している方です。彼女がどんな”衣”を着たArtistをクロスリテラルにContemporary Artの文脈の場に送り出し続けるのか、是非着目し注目していただきたい。


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