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【Review】TAP To Noise


TAP DANCE?

以下はこの度の吉田靖二との付き合いの内に自分が見出したひとつの応答であるから、もちろん、彼個有のTAP DANCEについてのみのことであり、一般的なそれのことではない。

無感覚的な、しかしながら衝動的である呼吸ないし、内なる心臓の鼓動への ”意識” がリズムとなり個を通して抽象化されるような、または、ことばの発現するリズムやメロディのような、人間の生きるうえでの必要に迫られ社会化することによって生まれたハーモニー(和の概念)もしくわ非西洋であれば音空間のうつろいのような、音楽(物理的な音とは区別する)の発生とおなじ源泉から身体の動きが生まれるといったものを古代からのアナロジーを以って認識し、ある種の内存の美として踊られるダンスを狭義のダンスとし、音楽と関係なく身体の動きとしか言い表すことの出来ないものに何らかのコントラストを与え構成をすることを以って身体のリアリティをダンスと見做すような行為は狭義には含まないとすると、タップダンスは基本的に狭義のダンスではない。

タップダンスは音楽だ。それは、自作の板と選択した靴によって新たにつくられた音を以ってつくられる音楽だ。音楽とそして身体のリアリティだ。音のフィジカルな現実とでも言いえようか。

音楽に関わる狭義のダンスの大半は基本的に音楽とその源泉を共有してきた。

しかし、今日のおおかたの形骸化したダンスにおいてはそれぞれが三角形を描こうとすることで断絶されているが故に、音楽からも切り離されてしまう。

その源泉を根底に音楽・ダンスがV字を描くとしてその根底にあるものとは何か?

TAPが踊られたジャズやブルースは、もちろんアフリカをルーツに、その音の感性を革新しながら演奏されていき、一方ではジャズやブルースであることを自己否定し、もう片方ではポピュラーとも言われる完全なる古典的権威、皆に働く不可視な力(りき)となった。まず脱力することで、力は忘れさらなければならない。

ダンスは、それぞれの音楽の持つ衝動によって踊られ、形式化していく。しかし、その衝動によるそれぞれのダンスの発生はその音楽を演奏するものと源泉を共有する。ダンスは音楽の衝動でつくられたものではない。音楽の衝動とおなじ源泉により湧き上がった衝動により衝動的に発生したものである。つまり、根源的には音楽とダンスは他の事をしているわけではない。TAPにおいては、その衝動の先が音を出すことへ向かった、ドラムの代わりのようなものだった。

つまり、TAPのそれぞれの音は他の音楽の音と同じように、また他のダンスとも同じように、その源泉なる衝動を抽象化し上層化したものである。

その音であるTAPの外観である音のフィジカルな現実を、肯定し能動的に受容しようとしたとき、TAPは外観さえも意識されコントラストを与えられることになり、狭義のダンスと再び一体化していく。もちろんそれは、より伝統的な楽器の演奏においてもあり得ることであるが、そうあることの意義があまりにも希薄であり、TAPにおいてはDANCEと呼ぶ以上その意義は大きいとここでは言いたい。

その狭義のダンスとの一体化の過程においては、からだの動性にまつわる何者かが”意識” されることが重要であって、美しかったりかっこよくあるのが必ずしも優先されないはずだ。その”意識" がなされた世界においては、狭義も広義も同時にすべて統一されてしまうだろう。

詩語が固定的な意味から解放されているように、音のフィジカルな現実もその意味や在り方自体が解放されている。より具体的に言えば彼が求めているものの極地は、音の鳴らない世界でのTAP DANCEである。現実を宙吊りするようなことになる。そこにJAZZがあるのか、BLUESがあるのか、NOISEがあるのかによって意味が変わるのではなく、JAZZやBLUES・NOISE自体がその意味となる。形骸化したダンスには音楽と共有した衝動がなくなってしまっている。この音の鳴らないTAP DANCEは、現実には音が鳴っているか否かということは関係がない故に、その衝動へのノスタルジーを破壊するものとなり得る。ノスタルジーへの回帰と反発において、ノスタルジーそのものの破壊は地平を切り開くことである。

身体のリアリティ、またはフィジカルな現実を一般に広くダンスと見做すこととなったのは近代に切り開かれた地平以降の話である。地平とは個で切り開くもので、それが詩的あるいは芸術的に受容されるものである。東洋の思想では、開かれた地平さえも個の体験によってしか理解されず、その道はひとりひとり別のものであるという。

その源泉であるV字の根底には、いままでずっと置かれてきた、昔で言う神による御業としか言いようのない、衝動とは何か別のものが置かれるのであろう。それは歴史と呼ばれたり、詩と呼ばれたり、もっと他の呼ばれ方がされるのかもしれない。それを行い体験するのが人間である以上、結果的に衝動を意味するものであったとしても、別のものである価値は大きいのである。

おせっかいにもこれから彼がやろうとしていることを尋ねると、その地平の実現を夢見ているようにぼくは思った。それは本人が思うよりもずっと現代的な地平に参上することなのかもしれない。音楽とダンスはその結婚のようなものを破壊しなければならない。

この日行った音空間的なノイズと楽しみに溢れたジャズスタンダードと自己肯定的なブルースロックという音の根底に潜むものは衝動と呼ぶことが可能であろうかそれとも別の何かなのだろうか。

もう知り合って10数年経つが、お互いに年と共に経験を重ね、地平を切り開いていかなければいけないほどに言いえぬ何かを続けてきたのだろうと思った。

自分自身、これからの吉田靖二を見るべきだし、それがまたKITTYであることも願いつつ、変わらぬ付き合いを共演の生島大輔氏、こか氏やこれから出会う音楽家ダンサーたちとも続けて行きたいと思う。


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