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【Review】Pretend Koukou Oct “暴力” 11/21(Sat)

詩の言語は、理性の暴力によってリズムから引き離され散文のように論理を伝えることが内実となる性質に変えられてしまう。論理は魔術的な(人間認識範囲の)世界のイメージ内でのものでしかない。魔術(=人間わざ)の中でも自動性を有する詩の言語は、その暴力により自動性を失い、魔術に従属させられてしまう。

しかしながら、本然的に、創造行為もまた暴力であり、それは理性への反逆的暴力である。

ゲストの池田慎氏の2KW Galleryでの同時開催展「ふわふわガバメント」の着想の源泉である「暴力」に対するお話からはじまり、ご来場いただきました皆様の個性に彩られたすばらしい会になりました。

皆様のことを踏まえつつ、お見苦しいですがわたし自身の勝手な手記しておきます。

刀狩文学

「こどもが持つ銃はおもちゃであるべき」というところから、さらに大人が持つ銃もおもちゃであることによって共同体の平和という安定した主権を保つというのがウェーバーの国家による暴力の独占の言うところでしょう。

この土地の美意識自体が暴力の独占である刀狩によって大きなターニングポイントを迎えたとも言われている。日本においての刀狩の成りの果てと言われる広義での日本刀の美意識、そのまっすぐ延長線上にあるモデルガンのカルチャーは日米の軍事を含めた親密な関係に支えられていたりする。敗戦による第二の刀狩に対して、この土地に存在した精霊とより強力なものの存在の、その制圧と服従の次第を語ることが文学を発生させ続けてきたとも言えるでしょう。また、アニメやものづくりの根源は、現実の変革を断念し、己の内面に沈滞したものと論じられることもあるロマン主義のニヒリズム化した精霊としてのアミニズムなのかもしれない。

(精霊は土地のものとして外来の神に制圧される)

(ロマン主義は、あらゆる制約で束縛されている人間の解脱に対する憧憬が文芸の始原的動機となったもの。異国情調とは常に並行して進んできた)

ふたつの理想を持て余す暴力論

そんな日本の一方、暴力の独占と個人の精神的自由という理想との折り合いが問題になる国の代表としての北米があるでしょう。暴力を、対話や会話等のコミュニケーションを含んだ、個の成熟に任せるという理想論により、個人が自衛のための暴力を所有するという銃肯定派の主張は、徴税を頑なに拒んだソローなどに代表される広大な土地を有する北米のアナーキズムに通じるものがあるように思う。

二つの理想の間に、人類の攻撃性を持て余す現在がある。

暴力を独占した国家同士によるパワーバランスを前提として、それでもなお個人の暴力の排除を嗜好する現実主義と、個人の自由な在り方を信じ自衛のための暴力の所持を主張する理想主義に分かれる。理想主義が、銃を現実主義に対する精神論化していく文学はそこにある。銃規制は暴力の独占を個人の自由にまで立ち入らせようとする問題であり、先程前提とした国家をベースとした包括的なパワーバランスによって平和を保とうとする20世紀後半のスタンダードを思わせる問題提起でもある。それは、基本的に客体化した考え方であり、その平和がどのようなかたちかで達成されることを到達地点とした途上のわれわれの在り方は、逆算した合理化という名の進化を義務付けられた猿としか言いようがないでしょう。それでもそれを信じて達成していこうとする時代は終わりを告げ、ビジョンが大きくは存在し得ないことを告げました。それは、散り散りになった世界でそれぞれにビジョンを創り上げるもので、個々にビジョンを持った生き方をした上でも成り立つ社会を考えていくしかないのでしょう。それは、急務ではないため、これから先も膨大な時間を要するはずです。

インド人によれば、われわれの現在生きている、不公平な富の所有を特徴とする時代は、43万2千年続くという。

根源性の問題

暴力は狭義には身体の現実参加であるが、広義には人間や生物に限らず、おそらく宇宙誕生の瞬間からの何ものかの何ものかに対する現実参加ともとらえることができ、その広義の行為即暴力の上ではすべての行為が暴力でありわれわれもその行為者であると言えるでしょう。

「子どもが ピストル に何らかの魅力を感じるその根源はなにか・・・」

果敢にもその根源的な問いに答えを求めるとすれば、それは存在に対する行為の本質とも言うことができるだろう。

もの(身体を有するもの、以下:生物)ともの(生物)の交わりにあるべき「まこと」

われわれが、上記の意味で暴力へのある種憧れのようなものを持つのは、

もの(生物)が「まこと」であろうと願うことに対する不可能性の所産なのではないかと。

常に、「まこと」であることができるのは、情念をそのまま行為として発揮できる超越者である神だけであると言われる。

「超越」というものは、構造的に魔術的(人間わざ)なもの以外の何かを越えているのではなく、「根源」と言い換えるべきであり、魔術の解かれた根源世界でのすべての行為は暴力の他のものではないだろう。

人がまことであることの美しさ。それは心のままにある行為の美しさ。

Pretend Koukouは、それが課題であることを知らされる前後問わずのあらかじめに考える途上のさまざまなことであったり、終了後の生きていく中で考えることであったり、さまざまにその意義を理会するところがありますので、当日はまとまりもなく遊び散らかすような集いになることに大いに意義があると思うのです。どんな素晴らしい会であっても、あらゆる意味での自分しか頼るものはないでしょう。

来月は、「売春」です。

忘年会を兼ねて行いたいと思います。(予定)

是非、皆様お付き合いください。

Pretend Koukou Nov ”暴力 violence” 11/21 ゲスト:池田 慎【El Colectivo vol.7】 11/21(Sat) 20:00~∞ 紅茶・コーヒー&軽食付き ¥1,500 毎月課題を設け、集まりに興味を持ってきた方々ひとりひとりが、くじ引きで恣意的に与えられた順番を元に課題について話します。場合によっては話が深まり時を忘れて朝までというようなこともあったりしますが、それはときによります。 ▼池田慎 芸術家。 刺繍や手芸を用いた仕事で知られるが、Craft Activismよりは軽やかに、概念に頼らずユーモラスに創造主体を溶解しつつ昇華する創作をつづけている。 個展・グループ展のほか、Art OsakaなどのArt fareにも参加 http://artosaka.jp/en/contents/artwork/a-6311_03/ https://www.facebook.com/events/1068758176489464/ =11月の課題= 暴力 Violence 11月9日からBar Kittyと2kw GALLERY58で展示をする池田慎氏をゲストに迎えておこなう11月の課題は、暴力です。「浣腸とノイズ」 BAR KITTYのノイズにも付随してくる概念のひとつでもあり、「ふわふわガバメント」2kw GALLERYの展示予定のCraftで構造が本物とまったく同じように制作され素材さえ違えば殺傷能力を持つという同名の銃作品にもちなんだものとなっております。 暴力に憧れることや国家という重いものから本来の行為とは無関係に思われるような音・芸術なども含め、さまざまな個性的な発想のものまで 是非お気軽にご参加ください。


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