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写真とノイズ ”死神にはいつもある種の悟りがある”

  • 2015年11月11日
  • 読了時間: 3分

 NICANORは、ガルシア・マルケスの小説「族長の秋」の死神が、生涯を通し権力に囚われてきた物語の中では名前の明かされない独裁者に対して呼びかけた名前。死神によると、人は皆NICANORという同じ名前で呼ばれる。死神にはいつもある種の悟りがある。

神とは何かを問う前に、そこに神が在り得ることを問う。

日本古代の神人とは男のことであり、巫女は処女のことである。精力のことを神業と畏怖したのである。

その由来する場所がどこであろうと、死神が、人間存在の根源のひとつである死を持って人智に対し超越的になされる神の行為の隠喩であったとしたら、死神はその存在自体で、すべての人間にとって等しくしかしそれぞれの距離で重要なものだろう。

現代のコンテクストで言うと、

音からすると、人は皆同じ名前で呼ばれるのである。

廃墟、そして写真とノイズ

現代以前にも近代以前の美術があったという条件、また、それが高次であるという条件において、現代美術は写真とノイズである。 人という創造主体から切り離された内存した何かの体験という他者性である。

何かのコンセプトと思われているものは、実はどこか別の場所にいる自分自身の体験の織り成すものである他者による、いまここでの体験者である自分への問いかけなのだ。

宗教概念における呪言から解き放たれたという意味における廃墟においては、創造者も体験者の一人という意味で観客と変わらない。高次の趣向がある限り、英雄になることはあっても、そういった意味での特別な創造主体になるわけにはいかない。

たとえば、写真を扱うことは、コントラストを見ることである。しかも、絵画と違い行為としてのそれが大部分を占める。 現代美術に対応する行為の範疇に入るのは音楽ではなく、音自体のコントラストを聴くことである。

われわれのことばにするノイズは、ひとつの音=ノイズとしての音認識論である。

それは、発生時間的な概念であり、劣位脳である右脳による体験を左脳で認識していくことで、右脳自体が他者の可能性も否定できない。

現代の高次の音体験においては、音=ノイズ認識自体から出発するか、音楽の中に音=ノイズ認識として聴くかのどちらかしかない。 「聴く」 体験すること、「観る」体験することにコントラストをおき、いまここの体験が他者との出会いを用意するのである。

創造主は体験のみならず行為をする。しかし、行為は必ずしも伝統的な方法に限らないという意味で、写真に近しいものである。

写真家に文章を書くものが多いのは偶然ではない。そのコントラストが他者を強力に求め、それに答えようとするのである。

それほどまでに、われわれは解き放たれている。

なので、行為をし運命という客体化することによってしか得ることのできない結果論はまず相手にしない。

自分の考えを造形するのではなく、素材との圧倒的な緊張感によって、発生する音との間の緊張自体を制作していく。そしてその自らの創造物を体験することによって思惟を構築し、世界のイメージを創り上げていく、それが他者性を深める孤独の楽園である。

故に、誰にも頼まれもしない仕事をいかに興味深いものにしていくかに、自分の人生はかかっているように思う。


 
 
 

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