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“Ecstasy Is Solitude” Kaori Yoshikawa Exhibition@Gallery IND.【Review】

10/3からはじまった吉川かおり約4年ぶりの個展に行ってきた。

もちろん、Bar Kittyでも同時開催中で、双方とも来場者は決して多くはないが本人の求める仕事は、何なのかを何度も何度も反芻してきた今であるから感じ考えられることも多く、もちろんこれからもそういった作業は続くのだが、実りの多い仕事であると確信している。

わたしスヌー自身、公私ともにほぼ時間をともにするのだが、Gallery IND,の吉川かおりの展示は全く手伝わなくて、敢えて何も聞かされず知らされずに楽しみに行ったので、こうやって作者からも一定の他者として、もちろん作品からは完全なる他者として作品に対してではなく、スヌー自身が作品を体験して考えたことをReviewとして起こしていきたいと思う。

吉川かおりの作品は、その切り離し方がとても冷たい。単に冷たいというものではなく、永久凍土の氷のような冷たさだ。

そしてそれはとても数学的で、音楽的、さらには、英雄的でもある。しかし、この冷たさのもっとも優れた部分は ”気楽であること” だ。

人智の最たる場を持ったころの中国では、数式は数字ではなくアートで、循環を作り続けることでそれを終わらせるものであった。つまりは、調和である。

ゆえに、関係性である言葉の性質的に言い表すことの不可能という意味での無であり、音楽的でもあり、数式で表すこと自体が普遍性を伴ったそれらと同等な美しい表現の一つでしかない。それが、共同体的言語となるのが詩であり、美しい音楽を持つようになった人間の不幸はここにある。

無の先にしか美はない。

すべての美の目的は、普遍性として内在している。

宇宙の法則としての定め(運命)から外れた自由な意志を持つことはギリシア以来の人間の悲劇で、悲劇自体がその自由を包容することでまた定め(運命)と循環し続けることで話を終わらせる。つまり、これも調和である。

現在性(モデルニテ)を持たないということではない。(ボードレール、モデルニテ

もちろん時代や社会というものは、普遍ではなく、普遍であるなにものか、そこからいかにずれているかが作品や普遍的に優れた個を際立たせる。ゆえに気楽なのである。

もっと簡単に言うと、時代に対して人ががんばるのではなく、時代ががんばってズレてくれているのである。人は常に普遍性を持った個であり続けながら行き続けるから気楽なのである。

吉川かおりは、芸術の実相が宇宙の法則ではなく行為であることを知っている。われわれはその行為と法則の全体の調和を体験するのである。

手前味噌ながら、ながらなかなかのもんだと思う。


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