[Review]Pretend Koukou 懇談会 『世代』 ~What’s my age again?ぼくって今いくつだっけ?~
さまざまな世代のたくさんの方にお集まりいただけたPretend Koukou『世代』、課題設定が秀逸だったのか、いやいや松井 沙都子さんや佐藤 由美子さんのお名前によるものか・・・
個人的には、時代とそれが抱擁する二十年で分割される4つの世代二十年周期世代論を学び、集まりを除いても土台の考え方を鍛えられた課題となりました。今回は集まりのなかで得られたものも踏まえた私自身のまとめをReviewに代えさせていただきたいと思います。
1.時代も世代も繰り返されるという学説
スペインとアメリカの学説について参考に扱ったものを読んだ。(ストラス=ハウ、B・マリウス、S・ハンティントンなど)
そのまえに、そもそもの世代論とは・・・
世代は、歴史的共通体験に基づいて前後の集団とは異なる価値観や生活様式を形成する、同一年齢層の集団による区分です。 ドイツの社会学者カール・マンハイムは「同時代に生まれた個人がその人間形成期である思春期に社会的、政治的な状況や強い印象を与える精神的文化の側から 共通の著しい影響を受ける、という同時的共存の現象がある」として世代論を展開し、現代の世代論の基礎を打ち立てました。
http://www.jmrlsi.co.jp/mdb/yougo/my01/my0108.html
そのマンハイム1947年没以後の世代論を少し見てみた。
「学者の書いた本に目を通してみよう。とはいえ、それを究めようと願ったり、無知であることの有利さや過ちの気まぐれをいささかなりともなくそうとしてはならない。」P・V
(1)世代について
世代は基本的に、
「理念世代」
「反抗世代」
「順応世代」
「現実世代」
の4つの世代を循環している。
理念や理想 を唱えると、それへの 反抗や皮肉 が生まれる。
反抗や皮肉 は、結局は、現状を肯定し自己満足することと変わらない。
ガス抜き的な現状満足は、表を繕い、その場をやり過ごす 現実主義 に繋がる。
しかし、繕い主義 はやがて、新しい理想や理念 を必要とする。
理念は反抗 を生み、 道徳主義
反抗は順応 を引き出し、 冷笑主義(シニシズム) ロマン主義
順応は現実 につながり、 現状満足 実存主義
現実の否定 は 理念 を生む。 外見主義⇒道徳主義
S・ハンティントン
また、ひとつの時代には常にライフサイクル(老齢・壮年・青年・若年)に対応させた4種すべての世代が同居する。各世代には「優勢か劣勢」(優・劣・劣・優の順)「精神性か現実性(世俗)」(精・現交互)という軸により二分される。
現時代の2006~2025年における世代は
①老齢成熟期=1936~55年 優勢 消費嫌い=精神性 「理念世代」
②壮年成人期=56~75年 劣勢 消費好き=現実性(世俗) 「反抗世代」
③青年成人期=76~95年 劣勢 消費嫌い=精神性 「順応世代」
④若年成長期=96~2015年 優勢 消費好き=現実性(世俗) 「現実世代」
と世代区分される。
社会的な親子関係は①と③、②と④の関係である。①老人熟成期の助役世代は自分たちの方法を③青年成人期の活動役たちに修正継承させようとする。この関係が世代の継承を生み出すとされる。
世代循環の成立・発生には、民衆の大衆化、国民化のような共同体内の人間としての硬直化・惰性化・物象化である教育制度、労働市場、マスメディアの発達が必要である。近代化、国民国家誕生の前後以降のことである。
消費嫌い(貯金傾向)と消費好きは交互で、①嫌②好③嫌④好だが、④は自分で稼ぎ消費しないので消費嫌いが多数の時代であるといえる。消費嫌いというのは、預金傾向といった実際に消費しないというだけではなく嫌欲傾向があるということであり、それに合わせたマーケティングの結果としての2000年代以降のブランド戦略傾向UNIQLOやMUJIのようなものとも言えなくもない。消費するものも車などの耐久財より精神的な充足を求める情報・サービス・コンテンツを欲する傾向にある。そして消費者は享受するものの隠された側面にある、過剰であるが故に必要・不要が分かれる、不可視なデコレーションとしての精神的なサービスに違和感を感じてるのではないかと考える。そのシチュエーションでは、われわれ日本人には、われわれ自身であること以上に社会的な意味での「日本人」であることを求められる。以前に、アメリカに送った荷物の中身が郵便職員によって盗まれるということがあった。また、海外では届けられた財布の中身を警察が盗んだりする。現地の人も被害にあえば怒る。しかし、それに対抗するような対策を考えることで社会は一定秩序だっている。このような話を聞いたとき、大抵の日本人は、日本はやっぱり安全面では優れた国だと思うだろう。しかし、本当にそうであろうか。自国以外の国にそうやって感銘を受けるのは良いが、社会の性質上、自画自賛は健全なことではない。日本には社会的道徳からの自由が基本的には認められていない。もちろん、日本人は個々には正直ではないことはわれわれ日本人が一番よく知っている、社会道徳的に「正直」でしかいられないからそうするのだ。日本の場合その職員の会社組織に訴えれば組織の名にかけてその職員を処罰するという道徳的抑圧がある。安全で道徳的な国、それ自体がそのまま日本人が感じている閉塞感であり、それを自画自賛してしまうことが閉塞感を破らないことに自覚がないことは大いに嘆かわしい。国々の在り方を「違い」ではなく、「差」と捉えている傲慢がはびこる限り、一種の差別社会の性質を持っている社会構造に変化は訪れない。日本人は自分たちを褒めるのもけなすのも好きで、しかもそれを良さと悪さと自分たちで捉えること自体が過剰で、もちろん外国人が褒めようとけなそうと関係ない、自分たちと海外の違いと謙虚に、または真摯に認め深めていくべきだろう。評価を必要とし無批判に自画自賛するグローバルな日本人は何に飢えているのだろうか。
(2)時代について
1886~1905年は「富国強兵」 精神覚醒
1906~1925年は「自由と浪漫」 高揚内向
1926~1945年は「危機と混乱」 現実危機
1946~1965年は「維新立国」 制度再生
1966~1985年は「豊かさと安定」 精神覚醒
1986~2005年は「成熟と衰退」 高揚内向
2006~2025年は「亀裂と動揺」 現実危機
2026~2045年は ????? 精神覚醒
と時代区分される。
1986~2005年はバブル崩壊⇒経済危機(副産物としてのさまざまな事件)日本は絶不調故のひきこもりがちな成熟と内省が求められた時代。一方アメリカはITバブル、イスラム世界との衝突
2006~2025年はリーマンショックによる世界的不況、中国の台等、SNSなどの世界的普及、福島原発事故、イスラム世界との継続的衝突
(3)環境をまたぐ国際的な世代
日本の1976~1995年世代と重なるアメリカでは1982年以降をミレニアム世代と呼び、21世紀に成人する初めの世代だが、両国の経済状況が対照的(日本は低迷、米国はITバブル)であることにより、世代傾向も対照的である。日本は内向的であるのに対し米国は明るく外交的でチャレンジ精神にあふれている。両国の若者の交流での大きなギャップが生じる要因をそこに求めてしまわなくもない。また、順応世代で現実危機時代のひきこもりがちな日本人の中にチャレンジ精神や安定に充足しない態度を持つものが少なく、そういった少ないものに良きにしろ悪きにしろ反応があることもうなずける。このように、誕生期の共有という意味での世代は同じでも、国や地域の環境が違うことによる優劣というものが生じてその一定の環境の者たちが時代を担っていくことも考えられる。科学・文学・哲学などで同時代性を持つ現代に、理念の行き詰った国で学ぶより、新たな理念の状況下に学ぶ方がより優れた資質を育むはずであるからだ。近代まで世界の中心であった中国に対する西欧世界の台等からのマスとリゲーム的支配の歴史もそうであろう。
現代のもっとも権力のある指導者はアメリカ合衆国大統領と思われがちだが、実は社会機構が成熟している国では指導者は無力同然と言っても過言ではない。対して、1950年代に多くの国が独立したブラックアフリカでは、指導者が大きな役割を果たしてきた。独立次世代にあらわれた指導者によって多くの国の時代そのものが混乱し、その次に登場した指導者により安定化した。彼らにおける次世代の課題は繁栄(貧困対策)と社会機構をつくることであり、やはりそのために良い指導者を養成することが必要視されている。25校の大学を新設して、養成された指導者の内の半数は政府・NPO、残りの半数は企業し雇用を産み出すことが期待されている。何のために高等教育を受けるのかということ自体が見失われている国に対して大きなアドバンスを感じざるを得ない。次世代における未成熟の社会環境の可能性は、ある側面ではアフリカが世界のお手本になるか少なくともなんらかのモデルとなる可能性がある、いやそれどころか、むしろ老齢成熟期の先進国でできなかったことを科学・哲学的に青年成人期の未発達の国に託し、それが世代サイクルにおける新たな理念の創造になり得る可能性さえあるのではないだろうか。
最初にいたわたしたちが、最後のものになった。 ガルシア・マルケス
2.次世代(ネイティブ)の発生
次世代は知らないことの優位性=不利性、過ちのきまぐれを備えた世代の発生である。
(1)高次の翻訳
たとえば詩を翻訳する場合、意味に忠実に翻訳することである直訳や、意図することに忠実に翻訳する意訳より、原語の詩の保存するポエジーを再創造するようにことばを選ぶことが翻訳とされる。そういった詩の翻訳のような文化等における高次における、既に別の共同体にあるものを自らの共同体の中にもどき再創造して行くことを「高次の翻訳」と名付ける。日本はこれを歴史的に重層的に古代から重ねてきた。仏教も人口の増えた際に平地に定住するために同時性もあいまって取り入れられたのではないかと折口信夫は言う。これは「高次の翻訳」ともとれなくはない。
(2)カセット効果
明治時代に植民地化の危機にさらされ、富国強兵政策による近代化を急いだ日本は、西欧文明の先進性を認め学んだ。必要な文献の翻訳に際し日本語にはなかったコトバが、カタカナではなく漢字で構成される熟語として多量に生成された。社会・個人・近代・美・恋愛・存在・自然・権利・自由・彼/彼女・健康など。それはすなわち本格的な翻訳のはじまりだった。しかし、この翻訳的言語生成において、原語の持つ意味が熟語に与えられたほか、熟語を構成する各々の漢字固有の意味も別々に発生してしまうという効果が後に発見され、柳父章により「カセット効果」と名付けられた。生成行為を伴った翻訳の効果も、実際に生成した明治の知識人は当然意識的だっただろうが、平均的な人々はそんな苦労を知る由もなければ、術もなかったはずだ。思考がコトバによって行われ得ることは疑いのない事実である。それは日本近代国家としての言語以前にはそれらのコトバや時制を含めた感覚が生まれなかった別の生物がいたということの忘却であり、われわれの土地の育んだ他者たち、幽霊たちがいなくなっていくことだ。近代化を経験した日本の詩歌・文学の在り方についてよりいっそう想いをよせるところである。現代国家自体は人工のある時期に用意された入れ物(カセット)でしかなく、結局のところ、やはり人類は、土を食べる泥から出来た子どもたちなのだ。国民国家カセット効果とでも呼ぶべきか。そんなことは、カール・ドイッチュにより語られていることのトートロジーに過ぎない。むしろ、カセット効果自体がコトバにおける国家なのだ。言語も指し示す関係性であるから故に常に変化していくものである。しかし、近代化は他者との国際的な同時性を伴ったという意味では圧倒的な変化に対し、その認知の無さの非対称性に世代の有利性とともにそれが可能性でしかないことを気付かされる。
(3)世代の発生
翻訳される文化によっては長い単位の時間が必要となる場合があり、そこには「次世代」が発生を待たざるをえない。次世代が発生することによって「世代」も同時に発生する。
たとえば、アメリカ発祥のHIPHOPにおけるイギリスでの独特な受け入れ方にある。アフリカ移民を多く受け入れたフランスなどは社会的な受け皿も共通点があり、言語の違いもあり、社会的なもの哲学を含んでわりと直訳されているのに対して、同じ英語圏であるゆえのアメリカンスラングとの違和感の大きさ、そして社会に対する精神性の持ち方の違いは、イギリスにおけるRAPをキッチュなアメリカ黒人のものまね音楽にしてしまった。それらに意識的なものたちは、HIPHOPのBREAK BEATSの音楽的方法論を利用した作曲はしてもRAPはしない、もしくは歌ってしまうTRIPHOPなどを生み出した。アメリカ人のRAPのないアーティスト(DJ SHADOWや最近ではシカゴのジューク・フットワーク)をイギリスのレーベルが発表し逆輸入されたり、BRISTOLなんかのジャマイカ移民の在り方が音楽につながったJUNGLEやDRUM’N BASS・DUB STEPなどのGRIME BEATと融合したHIPHOPが、アメリカへと再輸入され、アメリカのHIPHOP GAME(プラットフォーム)に風穴を開けたときなどもあった。もちろん本国アメリカのHIPHOPも世代を重ね、さまざまな変化を重ねている。こうしてRAPがなかったりまったく異質なものが代表的であったはずのイギリスのHIPHOPだったのだが、2010年代になって、アメリカのHIPHOPに距離を保つことの出来るHIPHOPネイティブ世代が、イギリスのアクセントでイギリスの真実味(リアリティ)という強度を持った、しかも比較的米国的なBEATに韻を重ねていくイギリス英語独自のRAPスタイルを確立しだしている。
日本においては、80年代~90年代は創世記で本来韻を踏まない日本語での方法論や日本人としてのHIPHOP方法論の開拓が続き、ようやく2000年代後半になって社会によりそった訳され方がおのずと育ってきたように見受けられる。訳に真実味(リアリティ)を与えたのは、社会的には「郊外」「団地」、幾何学的な意味での音楽性では「方言の音楽性」であったりする。おそらくロックなんかにもその翻訳の時期は見られるのだろう。
そこには、まぎれもなく次世代の発生が必要不可欠であることがあり、時代を変えるような要因を生み出す変化・結果という時間が必要なだけではなく、知らない優位性を持った人間が現れるという変化がないといけないのだ。
(4)芸術表現における世代
世代は次世代の発生により発生するものであると考えた上で、芸術表現における世代のサイクルを考えると、ライフサイクルによって分けられた世代を10年で2分割したくらいではないかと予想する。後の創作においての時代の影響力が最も大きな時期である10代を共有している集団は5~10年区切りでわけられるべきであろう。ここでの芸術はあらゆる行為の中でも高次に高められたものをいうことにする。
① ○ 期=1936~45年 優勢 消費嫌い 「理念世代」
② ■ 期=1946~55年 優勢 消費嫌い 「理念世代」
③ △ 期=1956~65年 劣勢 消費好き 「反抗世代」
④ ▼ 期=1966~75年 劣勢 消費好き 「反抗世代」
⑤ 内向セカイ?? 期=1976~85年 劣勢 消費嫌い 「順応世代」
⑥ ネットネイティブ?期=1986~95年 劣勢 消費嫌い 「順応世代」
⑦デジタルネイティブ?期=1996~2005年 優勢 消費好き 「現実世代」
⑧ ?????????期=2006~15年 優勢 消費好き 「現実世代」
※各世代の命名は、美術批評家等に託したい
表現におけるEx新しい世代⑤(1976~1985)と新しい世代⑥(1986~1995)
前者⑤は自分自身のあいまいで捉えきれない内面を表現しようとし、後者⑥は自分自身の見ている世界としての視点を表現しようとする傾向があるという指摘があった。90年代に10代の青年成長期を迎えた世代は、自分の内面に向き合っていくようないわゆる内省のものを求めていて、それを同時進行的に表現した内省世界的な作品に拠所にするまで倒錯できた時代に多感な年齢であった世代なのかもしれない。2000年代に青春期を迎えた世代はインターネットの違法ダウンロードやYou Tubeなどの発達をはじめからあったものとしてネイティブに享受しており、自分が何を見ているかを主張する世代で、前世代の傾向であった内象世界的な作品も違った知覚で客観的に楽しみ発展させていくような世代とも言える。基本的に後世代は前世代で成立した表現や科学技術を客観視可能で、その中でも興味あるものだけを具体的背景を知らずにも享受できる。さらにYOU TUBEやダウンロードで言うと、経済的格差による音楽の趣向というものがなくなった原因はそこにあるという論もある。お金の有無による音楽が聴くことができるか否かの差がなくなったことにその論拠をとる。
しかしながら、時代の変遷やライフサイクルの世代と表現の世代は勿論存在し、そういった意味では、ボードレールが言う「現在性(モデルニテ)」のように、時代に対する一時的なものから普遍的なものを見出す深い認識に基づいた行為が各々の時代を背負い得る表現のかもしれない。
3.世代・時代の毒について考えてみる
どんな思想もその立場や時間に拘束されているという思想の存在被拘束性がある
マンハイム
(1)世代の優劣における関係性が個人に懐かせやすい世代感情
現代における優勢の老齢成熟期世代が懐きがちな感情として、「自分たちは必死に仕事をしてきてこの国をつくってきたことを認めて欲しい。自分たちがいなかったら今はない。」(自分たちが優勢だったことの承認・尊重の欲求)
しかし、劣勢の青年成人期世代が彼らの世代に対し懐きがちな感情として、「自分たちは損をしていてこれからも損をし続ける。親世代は良い思いをしてきて老後も自分たちが支えていくけど自分たちの老後は保証がない。経済成長の結果働き続けないといけない奴隷社会にしたことを誇るな。」(自分たちは劣勢で可哀想だという承認・尊重の欲求)、
さらに彼らの上の優勢世代は戦争と物不足の未経験を理由に彼らの世代を認めないという。
考えてみれば、どの世代の主張も時代を個人の責任に押し付けた若者論的な、スポイルするための、切り捨てるためのジャンル分けと似ているように思う。
つまり、優勢や劣勢という関係性が懐かせやすい世代感情を個人が感じる移ろいゆく感情と混同する様に支配されがちで、本当に言いたいことや言うべきことが言えてない傾向がある。
優劣の関係性の中でポジショントークをするだけでは自己満足や現状肯定のシニシズムと変わらない。関係性のワナを超越不可能な世の中では天然の変化だけが物事を結果付けて動かしえるものとなる。
中国の文化大革命では、毛沢東は権力を奪い返すために青年成人期世代の若者が懐きやすい感情を刺激することで指導者たちの打倒を説き動かし、国を混乱させ沢山の死者や被害者を出した。多くの革命の側面もこれに当てはまるだろう。
(2)世代論とは生身の人間の視点から歴史を捉えるものである
世代は誕生した時期を共有する集団であり、感じ触れてきたものが違う故に価値観はおろか、知覚可能な変化や知覚可能な結果なども意外なほどに違う場合もある。違う生物と考えるくらいの、発達過程が違うが故に発達した能力の違う生物と認識しあうくらいの他者性を持って考えることが必要なのかもしれない。
「有用性という自分自身の小さな宇宙の観念が、その外部である他者にはなんの意味もないことなど思いも付かないものである。(中略)わたしたち自身の成長にさえ気づかないのだから。」P・V
4.ポスト循環史観
ファッションや髪型、音楽のスタイルなどの流行の循環はインターネットによる多数の情報発信によるディストリビュートの過剰による流行やムーブメントの小規模多様化に伴い終わったとされる。世代循環の成立・発生の条件の一つのマスメディア自体が流行を生み出すほどに機能しなくなっていることが要因とも言える。
また、写真家のタリン・サイモンの提示するような人類が機械のように生命を繰り返し続けているだけなのか、それとも何かに向かっているのかというような疑問についてだが、ヘーゲルのような歴史は何かに向けて進歩するという「上昇史観」や、逆に、古代中国やギリシアを最高点とするものや末法思想・キリスト教などのような「下降史観」は歴史的事実解釈の分野であってここでは論じ得ない。
「マズローの欲求階層説」によると、欲求は5階層のヒエラルキーがあり、(後に0が付け足され6階層)
0.自己超越の欲求(Self-transcendence)(人にも自分のやりたいことの出来るような影響を与えたい)
1.自己実現の欲求 (Self-actualization)(自分のやりたいことをする)
2.承認(尊重)の欲求 (Esteem)(自己を確立する)
3.所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)(コミュニケーション)
4.安全の欲求 (Safety needs)(安全に暮らしたい・住環境etc)
5.生理的欲求 (Physiological needs)(生きたい・食etc)
5~2までは欠乏欲求、1は存在欲求と呼ばれる。存在とはハイデガーや実存主義的なものなのだろう。もちろん、西洋の社会でだけ適用可能などのさまざまな批判はある。われわれが感じる欲求はいったい何なのかを惑わされずに実現のために実行していくためにはさまざまなものに対する理解が必要である。そのひとつとして自分たちに深い関わりのある世代やその世代が属する時代の毒を理解し、毒されるのではなく毒を味わうくらいの加速が必要なのかもしれない。
(参考サイト)
世代論からみた「明治維新から2030年までの未来」 - 循環史観で先読み
http://www.jmrlsi.co.jp/menu/mnext/d01/2013/circulation01.html
タリン・サイモン
http://www.ted.com/talks/taryn_simon_the_stories_behind_the_bloodlines?language=ja#t-1061345
以下Preview 告知時掲載分
PRETEND KOUKOU 懇談会 『世代』 ~What’s my age again?ぼくって今いくつだっけ?~ 日本人も儒教的なかたくるしさから脱し、いまやさまざまな年齢の方と対等に話す場というものも一般化してきているような昨今、話していて感じるのはやはり世代ではないでしょうか。 30代であることに慣れてきた私たちの世代は、次の「新しい世代」を迎え、自分たちが「新しい世代」である時代は過ぎ去ったといえるでしょう。そんなex「新しい世代」の我々の「新しい世代」であったときの創作・表現は如何様なものであったか。 そのような避けがたい興味からこの考察の機会を設けるものである。 ・・・が、それだけを話題に進行するのも心もとないので、「世代」について様々な切り口で調べて発表します。いつものPretend Koukouのままです。 ※なお、参加いただくのは高校生から70代の方まで老若男女問いません。基本的にゆるく語らっていますので、お気軽にどうぞ! 6月20日(土)16時から約3時間(休憩あり) 入場無料(1DRINKオーダーお願いします) 進行:スヌー、かおり ゲスト:松井 沙都子 http://matsui-satoko.com/profile.html スカイプゲスト:佐藤 由美子(トランジスタ・プレス代表) Yumiko Sato, Transistor Press http://www.nicovideo.jp/watch/1419402767 「世代」は、辞書には”誕生した時期を共有する集団”とある。 人は誕生によって宿命付けられた『世代』に取込まれるという毒に侵される。一見すると無垢な若者にも等しく暗示的に注がれる毒は、いかにして人に症状をもたらしていき、人に具体的な影響を与えているのか。