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PRETEND KOUKOU 23/11/’14 @BAR KITTY y FAT KITTY TEA & HERBS

PRETEND KOUKOU来場・協力御礼

PRETEND KOUKOU 23/11/’14 @BAR KITTY y FAT KITTY TEA & HERBS

PRETEND KOUKOU 30/11/’14 @Cafe Lavanderia

 ご来場ご協力いただいた皆様、暖かく励ましてくださった皆様、どうもありがとうございました。あびこにていつもご参加頂いている皆様、Cafe Lavanderiaの藤本さん・佐藤さんと運営メンバーの方、御自身の挙式の翌日なのにお越しいただいた友人、KITTYでもお世話になったTOKYO SPRINGのスレーマンさん、イギリスからのトム、Cafe Lavanderiaの常連さんも巻き込んでしまいすいません、そしてありがとうございました。以下にぼく(スヌー)なりに今回の11月の2つのPretend Koukouの内容を2回に分けてまとめてみました。拙い文章ではありますが、ご参考いただけたらと思います。

第一弾 PASATIEMPO≠趣味

PRETEND KOUKOU 23/11/’14 @BAR KITTY y FAT KITTY TEA & HERBS

課題“PASATIEMPO”

 ”PASATIEMPO”というスペイン語は日本語に翻訳すると「趣味」ですが、やはり異言語間では同じ指示内容ではありません。言語間の違いが生む幅の広さは、課題の解釈の広さをつくるのですが今回は前月に“記号”という課題を経た影響も少なからずあり、言語のルーツや社会の歴史を、現在使用されているという意味での“表層”の意味だけではなく、時間と空間の一致した抽象的ではない根の張った場で積み重なってきた“地層”が重なり成す構造を見るという意味での、地質学さながらに、さかのぼって考えていく流れになり、その違いの生んでしまった広さに意識的になるような内容となりました。

言語といえば先日KITTYに、近くの大学の関係で滞在しておられるという、アメリカの大学で“第二言語を習得すること”について研究されていた方が来られたとき、言語は抽象的なものではなくその土地・風土から生まれたもので、単に表層的なコミュニケーションではなく、魂からの言葉を発するには、幼児期の学習を追体験するような学習をすべきであるということをおっしゃっていました。彼女によると絵本で学ぶことが一番の方法ということなのですが、言語だけでなく絵が語っていることを読み取っていくことも重要だそうです。レヴィ・ストロースは言語は元々記号ではなく価値だったといいます。それぞれにはじめに与えられた価値が記号化されていった結果として、ふたつの言語の指示内容がすれ違っていく様を、ぼくたちは感じていくことになります。余談ですが、言語が価値であったことを感じさせる文章はわれわれに相当な強度を感じさせるのかもしれませんね。(10月の記号論については会の後に勉強すればするほどまとめられずになっていますがそのうちに・・・。)

さあさあそれでは、内容の中で印象に残った発表を改めて考えていきたいと思います。

TIEMPO(時間)??PASAできるTIEMPOがない

そもそもは、産業革命が起こった西欧において、時計によってWORKTIMEが計られるようになったとき、PASSTIMEが現れたそうです。それまでの奴隷や封建制度ではなく、労働者としてそこから名目上解放されて(実質は労働環境から逃れては生きていけないという意味では解放されたとは言えない)、自分の労働を時間単位で売るような社会構造となってWORKTIMEを計る必要が生じてきたのでしょう。しかし、ここでもPASSTIMEは決して「趣味」とは翻訳することはできないことに留意しておきたいと思います。

人間の活動時間をこのようにTIEMPO(時間)で考えたとき、WORKTIME=PASSTIMEということはありえないということに気がついたという発表がありました。(ここでは便宜上同じインド・ヨーロッパ語族ルーツのゲルマン言語である英語WORKTIME、PASSTIMEに訳します)ところが、東京でこの話をしたとき、大金持ちの夫がいて働いてお金をつくる必要がないにもかかわらず販売が好きという理由だけで働いているという方が実際にいるというお話をいただいて、後日再考する機会を与えられました。彼女の場合は対価を得る必要がないにもかかわらず、好きなことをした結果対価を得られているということなので、WORKTIMEに好きなことをしているといえるある意味で幸運な、しかし特異なケースかもしれません。ぼくスヌーはダンスをしてきたのですが、マニアックな趣向を持つが故に開演前にアナウンスできる機会があるときはいつも「これから見ていただくぼくたちのダンスは、決して楽しいものではありません。お客さんの方でがんばってみて頂いてすこしでも何かいいことがあれば幸いです。」と申し上げてきて笑わせることにしていました。そんなダンスをしていても趣向が対価を得やすいものである人は幸運だと思ってきました。しかし、芸能を含む活動というのは対価だけでしょうか。ということについて考えさせられたのが次の発表でした。

補償金とはなにか

昔、人は狩猟・農耕をしなくては生きていけなかった。そのような原始的な時代より好きなことを曲げずにして生活していた職業で今も変わりがないものとして、芸能(音楽)・教師があります。坂口卓也氏のブログ“音薬談”の音楽と生活というエントリーをご紹介し、好きなことを曲げずに仕事にすることとはどういうことかということを考えた発表もありました。重要な参考としてご紹介したいと思います。

音楽と生活

最近ある音楽家の方が 「ダウンロードも有り難いのだがやはり CD を買って貰わないと

制作に費やした経費さえ取り戻すことが出来ない」 と SNS で発言され様々な方がこれに意見を述べられている。

これがとても面白いなぁと想うので少し記してみることにした。

もう 40 年くらい前の話だがゴングの "Flying Tea Pot" から "You" に至る 3 枚の LP が

とても聴きたかったのだが輸入盤店で 1 枚 3 千円を超える値段がついていてとても手が出ない。

その時 「こんな高いレコードでも自由に聴くことの出来る時代が来ないのかなぁ」 と悔しがっていたら

本当にそんな時代が来てしまった。

まぁ 「これじゃ音楽を創った側は儲からないし大変だろうな」 とも想うのだが

そもそもどうして音楽で生計を立てるシステムが出来あがったかを想うと妄想が突っ走り始めた。

妄想なので勝手に記すのだが音楽は最初そこいらで誰かが勝手に歌っているというものだったのだと想う。

それを聴いて気に入る方々が居れば 「聴衆」 が発生するだろうし

彼らは首尾よくそんな歌の現場に遭遇することを望んだ筈だ。

本来とは違う場所で違った時間にいつでもその歌を聴きたいという欲求がやがては現れただろう。

そこで歌い手の都合と聴衆の欲求を擦り合わせる為に音楽ビジネスが生まれたのではないのかなと想うのだ。

やがて歌い手は歌うことでお金を得る立場へと至る。

そのお金は歌に対する代価と言うよりも音楽ビジネスの補償金みたいなものだったのではないのかな?

つまりひとりの歌い手から発生した音楽ビジネスを継続させる為には起点に歌の発生が無くてはならない。

出来ればレギュラーに長期間にわたって音楽の発生が続けば言うことは無いだろう。

想えば 70 年代には大体年に 1 枚のアルバムを発表するのが常識だった様にも記憶する。

さてこのビジネス構図が創造者 (歌い手) / 制作・配給者 / リスナーという三者から成るのは言うまでも無い。

そして理想は三者の利益にバランスがとれていることだろう。だが現実にはそう行かない。

再度 40 年前の時代を想起してみると苦労して買った LP には気に入らない曲が入っていて

損をした様な想いを抱いたことが少なくない。

それが本当につまらない音楽であった場合もあるが

他方ではそれがとても斬新な音楽であり自分の理解は随分と後で達成されたケースが確かにあった。

そこがリスニングの面白い点で

好きなものと気に入らない曲が同居していることで後者の真髄を理解出来ることがあったのだ。

このプロセスは自然な音楽の教育にも喩えることが出来るだろう。

意識的なのかそうではないのかはさておき

芸術にはこうした理解レベルの研磨とでも言った機能があるのでは無いかなとずっと妄想している。

だが短いサンプルを聴いてダウンロードで購入する音楽はこのプロセスを経由しない。

なので 「早い」・「安い」・「うまい」 を利点とするリスニングに聴き手は幽閉される。

ダウンロード配信においては

創造者 (歌い手) / 制作・配給者 / リスナーという三者のバランスが後 2 者に偏重していると言えるだろう。

従って割を食うのは歌い手である。

それまで CD 販売という形で音楽を利益に変え還元してくれていたビジネスが

「ここまでしか手伝いませんよ」 と宣告して来たのだと想えば良い。

ではこれにどう対処すれば良いだろう?

ダウンロード外の部分を音楽家が担当するのは至難の技だと想う。

精一杯妄想させて貰い記させて頂くのだが本気でリスナーの教育を行うことしか無いだろうと考えている。

誰が教育を行うのかと言えばまずは音楽家自身だろう。

あるいはリスニング・インストラクターの様な存在の登場が必要かも知れない。

音楽を評論するのでは無くリスニング自体の研磨を説く立場の方が。

勿論こんな作業が大規模に陽の目を見る訳は無い。

従って裏の作業としてさながら 「刷り込み」 の様にして行うしか無いだろう。

とまぁ妄想は尽きない。

ポロッと本音を発言してしまいこれを揶揄する意見があちこちから飛び出したというのが今般の構図だろう。

だが妥当であるか否かは別としてこの発言が本音だろうということは誰にでも判ると想うのだ。

こうした発言が出る背景には

当たり前だと想われていることに抵触する何らかの変化とが確かにあるのだろうなぁと言うことも。

そして妄想することは勿論最大の娯楽なのである。

「音楽ビジネスの補償金」(4段落)という捉え方は、とても大切な抜かしてはいけないもので、一言で言うと“愛”だと思います。たとえば、自分自身の考え方を変えるような感動をさせてくれた活動(店舗経営・芸術活動・社会活動・慈善活動など形態は様々)があったとして、それをどのような具体的なカタチとして表していくのかということを考えるときに、“対価”であるより“補償金”であるというように分別し考えて行動していくことは、活動をしていく当事者にとっても、愛していく側にとっても本人たちの人生において大変重要なことと思います。むしろ坂口氏の例を見たとき、それは補償金にはとどまらない、補償というように思えてそのあり方を改めて考えさせられるものがあります。

買い手がサンプルを視聴することで買い手の欲しいものだけをダウンロードするシステム自体が対価を支払うというシステムとなっていて、ダウンロードが無い時代は補償という愛すること(対象ではなく、自分を省みながら理解しようと努力すること)を人々が学ぶ状況(坂口氏の言うところの“リスナーの教育”)があったのかもしれない。また、自由な状態を保ちながらすべきことを曲げずに仕事としてお金を稼いで生活をするには、愛されて生きること以外はないのかもしれない。現代は、”早い”・”安い”・”うまい”を追求してつくりあげた作り手や売り手には愛を語ることさえ難しい、買い手市場の対価時代ともいえるのではないでしょうか。

労働と仕事と活動、そして観照

ナチスのアイヒマン裁判の報告で有名な哲学者ハンナ・アーレントは「人間の条件」の中で、人間の生活を「観照的生活」と「活動的生活」の二つに分けました。

観照的生活とは、プラトンの主張するような永遠の真理を探究する哲学者の生活であり、

活動的生活とは、あらゆる人間の活動力を合わせたものです。

さらに、そこから“活動的生活”を労働・仕事・活動の三つに分けました。

労働 :消費され、物として残らないことをすること。家事など

仕事 :物として残り世界を構成するものをつくること。

活動 :物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行われる唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間 man ではなく、多数の人間 men であるという事実に対応している。

ギリシア時代の自由市民(奴隷ではない人)は、アリストテレスが言ったように観照的生活を理想とし、“活動”はしてもアーレントの定義するところの“労働” “仕事”は奴隷のすることとして避けていました。

さらに過去の“地層”を見れば、ラテン語では、Leisure(レジャー)は“to be allowed”(許されている)という意味があり、産業革命後の人オスカー・ワイルドは許された時間にも進んで用事をつくりたがる人(奴隷になりたがる人)をオキュパーティーと呼びました。

宗教において、またギリシアの哲学者プラトンにおいても、PASATIEMPOの過ごし方として、良いとされるものとそうでないものを記しています。現代の感覚からすれば一見すると少し違和感がありますが、音楽を演奏することも奴隷がする“労働”とされたそうです。そういった意味では、現代になって、演奏においては録音そして再生を可能とした記録媒体が、作曲においてはテクノロジーが技術的修練を伴った演奏行為としての“労働”を“活動”や“観照”に一定開放したといえるのかもしれないのですが。“観照”とまで音について考えていく人は限りがあるのかと思いますがたいへん興味深いところです。

 ハンナ・アーレントは自由であることについてこう言っています。「人間は、自分が必然に従属しているということを知らないとき、自由ではありえない。というのは、人間の自由とは、常に、自分を必然から解放しようという、決して成功することのない企ての中で獲得されるものだからである。」

“自由”になるためには人間は「労働=必然」に従属していることを知っている必要があり、逆に自分が従属していることを自覚しないでいれば、その人間は“自由”になることはできないということです。ただ、ぼくたちのような自分たちの音や芸術にかかわらず表現活動について考えるものにとっては、自分にとっての“労働” “仕事”とは何かを知っているだけでなく“活動” “観照”をはっきりと認識して生きていかなければならないのでしょう。音においては誤差はあれども、“仕事”は記録媒体・“活動”は演奏や人と関わっていること・“観照”は音楽ではなく物理現象である”音”そのものに耳を立ててそれを批評していくことに他ならないでしょう。芸術においては、仕事は“制作”、 “活動”は展示や人と関わっていることでしょう。

その日の他の話題としては、ベーシックインカムの論争が高まってきたとき本当は働いているフリをしているだけで、働く必要のない人がたくさんいることは指摘されていたこと等と様々つきませんでしたがこのあたりにさせていただきます。

次のエントリーは東京編になります。

最後まで読んでいただいた方ありがとうございました。

是非12月26日20時よりの

PRETEND KOUKOU 課題  ”RESIDENCE” にお越しいただけたらと思います。

お待ちしております。

 
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