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吉川かおりとノイズ 【Review】


お越しいただいた方、

お気遣いいただいた方、

いつもいつもありがとうございます。

パフォーマンス三本立て、見ていただいた方々どれも体力を要する内容と演者ともども心得ておる故に改めまして、ほんとうにお疲れ様と申し上げたい気持ちになっております。まったくの手前味噌ですが、”○○とノイズシリーズ”の三回目、「未明の何ものか」を体験する場として機能していくものではないかと期待を込めて感じております。

さてさて、終演後も公に発言させていただきましたが、今回のヨーロッパ旅行の終着点となったアムステルダムにて、現地の芸術大学で振り付けを学ぶ友人と見に行ったシアターの付属したバーで行われたダンスの小公演では、終演翌朝に演者と他批評家を交えて 作品への意見交換をするらしく。その表現者たちの生んでいるダイナミズムに感心させられました。

 今回のEURO4カ所の旅全体でも最も感じたキーワードのひとつがその”ダイナミズム”で、ロンドンで感じた大都市ならではの単純な人の出入りの量の生む代謝的なダイナミズムもさることながら、パリは短期間過ぎて感じるに至りませんでしたが、セヴィージャでは伝統の観光的なダイナミズム、アムステルダムでは生活の現実性から飛躍していくような実験的な傾向にダイナミズムを感じました。それは人間が生活してきたそれぞれの都市(土地)の持つ性質としてのダイナミズムであって、そこにあった人が住みにまたは活動に来て、そこにあったあり方をした人だけが活かされる可能性を持つダイナミズムなのでしょう。

アムステルダムの友人とかおりとも話していたのですが、ヨーロッパでは”好き””嫌い”や感情的なものを解体する作業を強いられます。つまり、良くも悪くも日本の習慣では要しないところまで思考が介入していきます。それ故に深まっていくものもあれば、日本は本来的には違う深まりがあると存じます。

角田忠信氏の研究によると、一定の種類の音に対して右脳左脳のどちらを使うかという点においては、ポリネシア人と日本人だけが違う性質を持つといいます。感情音や動物・虫の発する音(日本人は日本の器楽も)などは、日本語とポリネシア語以外の言語を第一言語とする人は非言語なものを解する劣位脳である右脳で認識するのですが、日本人とポリネシア人は言語脳(論理的に思考)であるはずの優位脳である左脳を使って認識するとわかっていますが、感情と論理を同じ優位の脳で処理できる、もしくはしてしまう日本人・・・というようなことも関係しているとおもわずにはいられませんでした。

日本人は、良く言えば感情を論理的に自らの中で調和させることができる、・・・

悪く言えばそれに奢り、分けることを怠りなんらかのプロセスを介しないとも言えるのかも知れません。

Kittyでは、アムステルダムの方法で深めていきたいというわけではありませんが、日本・ポリネシアと海外のその違いを理解して自分たちに問いかけながら深めていくプロセスを忘れては、その「未明の何ものか」の源泉であるはずの精神的な自由そして調和が育まれないような気がしてそのことを考えて発言したと今は解しております。

以下各パフォーマンスのわたしスヌー(Bar Kitty, Nicanor - Bar Kitty Music -)のレビューとさせていただきます。

▼tbt S

 音の発生主体としての彼の慣れ親しんではいない、これまでの方法と違うアプローチに意欲的に取り組んだパフォーマンスでした。新たに取り組んでいるという彼の在り方は、ギターの音と発信音のループにエフェクトをかけたり、フィードバックさせることで得られる音響世界を、他者として音に奉仕するように意識を研ぎ澄ましていくような主体性を感じるパフォーマンスと見受けました。これまでは、創造主体として半ば我を失うほどの集中をすることで音に陶酔し主体が消滅していくと同時に、やはり主体であり続けるという次元のパフォーマンスと見ていましたが、その主体の次元的違いがどのように感じられたのかじっくり録音を確認しながら本人とも対話を重ねてみたいと思います。次からも見守り続けましょう。いい仕事をしてくれるでしょう。Nicanor - Bar Kitty Music - 音源もそういった行為を仲介するような役割を果たす媒体としてご用意していければと思っております。

 哀歌のような抒情詩の伝統、そして貴族的な叙事詩。そして悲劇のもとは確実に伝統的な抒情詩でありながら、しかし悲劇の実質は英雄伝説的な叙事詩である。そして抒情詩もロマンティシズムを経て純粋個性と発見されなければならないし、その人間の宇宙法則としての定められているはずの運命とそれに対する純粋個性の自由の宿命的な悲劇がそこに包括されることによる調和が、その行為自体にヒーロー性を付与する。

 ここでは、伝統とは革新されていく場または共同体であり、叙事とはその共同体のみならず運命に働きかける英雄の成す事と考えます。

 10月24日”夜景とノイズ”@おかげ楼、

 10月29日<ノイズ天国 その1>NASCA CAR alone/野中怪談/tbt S+角矢胡桃+金属太古 /ロデオホドリゴ@難波BEARS、

 11月14日池田慎とノイズ@Bar Kitty

にも出演していただきます。すべてお見逃しなく、そして語り合いましょう。

▼Brian was a dream?

 吉川かおりと私スヌーの自称doegazing band(メス鹿を見つめる楽団)でして、自分が参加している以上、主体的にしか語りえないので、ここでは自己紹介的に綴る事とさせていただきます。

 スタートの1曲目は、前日に伺った奈良生駒のGallery IND.での吉川かおりの個展、”Ecstasy Is Solitude”、その中の展示作品のひとつ”Broken Mac book pro” (※作品は別レヴューにしようと思います) からのPC故障時の警告音だけを抽出したものをループさせ、それにエフェクトや編集をしたものを、幾トラックも重ねる即興的Live演奏からはじめました。元の展示作品を体験することによって変容を感じた自分自身の状態に実直に即したものに挑戦すべきという意志をもってライブ感を持って即興に望みました。

 2曲目、”Sweetness”。甘さのGentrification, Standaizationについてうたう曲。 かおりは、どうやったら正直にできるか(それは後述のTakayuki Kuraの”行為”に共通するように感じる)、あとはしゃべっている内容が大切だとのこと。

 そして締めには、”Atmosphere or nothing"日本語で言うと、「雰囲気または無」という意味。

ぼくの源泉を授かったMallarmeの ”無” は仏教を知らずに到達したもので、「無=なにもないこと」ではなく、「無=それを表せる言葉がなにもない」ことです。

社会人類学者Lévi-Straussが 無 に到達したことを Octavio Paz が見抜き、彼が奥義を究めた詩人と呼ぶ Mallarme が 無 を見つけ、それから 美 をみつけたということを読み興奮し着想した曲名。

 ところで、曲名というのは、すべてにおける名前と同じように、けっして恣意ではなく何かを感じながら付けたのですが、名付けてからものすごい影響を受けるものですね。

前回ご紹介した民族音楽学者の小泉文夫氏曰く、ひとつのうた・ひとつのリズムしかもたないはずのわれわれの成れの果て=美しい音楽の多様性、美しい音楽を持つ不幸を思考したり、その美しく不幸な入力信号の音痴についてとか、美というものが調和を与える無だとか、さまざまな源泉と複雑に絡み合いながら楽曲への想いが発展していくことに喜びを感じています。

よりなんらかの深みをもって続けていきたいと思います。

▼Takayuki Kura(mondsee)

行為を!!

Paul Valleryは、詩の言語 と コミュニケーションの言語 を明確に区別するために、前者は行為自体に目的が内存した ”舞踊” であり、後者は行為の外に目的がある ”歩行” であると説明しました。

Takayuki Kuraの行為は、創造的な意味でのなんらかの法則におさまらないこと、そしてそれがけっして高純度であることを理由に悲劇的なものにはならない行為であること、すなわち、彼の内を通して調和としてあらわれる行為であることを感じさせ、それらがその彼のコントラストによって総合的空間として、われわれがその新たな法則の中に置かれて体験するものであるようでした。

また、繰り返し体験し考えていきたいと思わせるものでした。

Carsten Nicolaiは、音・色も量子力学的にひとつの波としての物質と捉えて、あのような創造的な行為にいたると語ります。当然のことながら、その波の動性を一定の記号で表現するという意味においてであり、身体を含めた空間の動性も同じように物質として捉えるのでしょう。(時間は体験においてはセンシティブな問題でまた勉強し考えていきたいです)

人間にとっての音楽が調性として便宜上に定めてきた比較的シンプルなものを数式的に考えるとして、現在、数式そしてそのいち分野である幾何学で本当に考えなければいけない音という意味での人間の認識論的ノイズとはどういったものだろうか。

 いまや、感情や生命、そしてそれらの超異言語のコミュニケーションとしての数式、言語や人間誕生以前の世界を扱う数式は現に創造的挑戦にいたっているとも言えるであろうことに対して、想定されている定め(運命)の内部での創作やPerformanceを含めた ”行為” は、如何に ”芸術” というレーベルが貼られていようが、高次とは認めがたいものという認識があります。

正確に理詰めされていくべきノイズもあれば、それはまだまだ未明の領域が広がっていて、数式も音や身体もその表現の突き詰め方のひとつなのでしょう。まあその突き詰めることさえもひとつの側面だけでしかありませんが・・・

今回ははじめて”行為”という、Takayuki Kura氏をお迎えした 吉川かおりとノイズでしたが今後もノイズを決論づけることなくさまざまに行為していくきっかけになればと思います。

次はいよいよSpecial Event 10/24 ”夜景とノイズ” - City lights & Noise - @生駒の門前おかげ楼

次回は、11/14 池田慎 とノイズ です!!!

おたのしみに

<吉川かおり と ノイズ> Kaori Yoshikawa to noise 10/9  金曜日 SATURDAY 10 Oct / 7pm Open LIVE:・Brian was a dream?(Acoustic version?)    ・Takayuki Kura (mondsee)(act)     ・ tbt S (Noise) OPEN CHARGE(投げ銭) + 1DRINK ORDER 今回の○○とノイズシリーズは、Gallery IND.とBar Kittyの同時開催でおこなわれる10月の吉川かおりの展示を記念したパフォーマンスです。 ▼吉川かおり 詩人。 兵庫県生まれ。1才から27才までをロンドンで過ごし、帰国後現在まで大阪で創作を続ける。 https://www.facebook.com/events/1577863199101143/

▼Brian was a dream?Bar Kittyのふたりのユニット。スヌーと、ロンドン育ちの予測を一切拒否する詩人吉川かおりによる、ennuiな夜中のうつろなdoegazing band。自称new noise!

▼Takayuki Kura (mondsee)行為を!!

▼tbt S(Akihiro Kasemura)

2014年12月に某大学の軽音楽部のライブに端を発して活動開始。大阪の難波ベアーズやBAR KITTYにてライブ活動を行っている。ロックミュージックをルーツとし、BassⅥ、エフェクター、アンプリファーを用いて無音階音楽を製作。


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